小布施のジャズ喫茶 BUD

♪日々好音の米蔵空間で薫り高い神戸萩原の炭火焙煎コーヒーを♪

台風18号 風の通り道

延徳田圃の小布施地区でリンゴを作っているSさん。
7割近くが落果して、贈答用のリンゴは穫れないという。
そこは高山方面から雁田山沿いに北へ抜けていった風の通り道
に位置していたのだという。

高山のリンゴは大丈夫か・・?
30年以上お世話になっている
リンゴ専業のMさんを伺ったところ、
少し落ちた程度だったと聞いて一安心。
今はリンゴがない頃だと言いつついただきました、
左から紅玉、信濃ドルチェ、ピッコロ、すわっこ。
紅玉以外は初めて聞く名前です。
さて、お味は・・・
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母逝きて立ち尽くす彼岸花

音を聴く「ハイドン」

人はいつ何に惚れるかわからない。
この待ち伏せに出会うのは、不思議な驚きと面白さがあります。
この面白さの体験は生きる喜びと楽しさなんですね。
ホントによくわからないんだよね、好きになるというのは。
ハイドンさんが山のように川のように現れて登ったり下ったり。
いつしかハイドン山に登り始め、その魅力に虜になっている。
この山は裾野が広く実に大きい。
登り口がいっぱいある。
交響曲107曲、弦楽四重奏曲78曲、ピアノソナタ58曲、
ピアノ三重奏曲41曲、それに各協奏曲などなど、まだまだ・・。

ハイドンさんとのご縁は20年以上前に買った、
ドラティ指揮ハンガリー交響楽団の交響曲全集。
イギリスプレスのロンドンレーベル盤。
なんと20年も置き去りにされ、今出番が回ってきました。
そして今、ハイドンさんのお導きでハンガリー盤とご縁に。
というのもハイドンはハンガリーとは大変深い関わりがあります。
ハイドンは1732年3月31日ハンガリーに近いローラウに生まれ 、
1809年5月31日に亡くなる
77年の生涯の中で、30から60までの
30年間、ハンガリーの大貴族エステルハージ家の楽長をしていました。
そんなこともあってか、ハンガリーの音楽界はハイドンを深く愛している。
ドラティを始めハンガリーの音楽家による演奏がたくさん録音されている。
それらは日本では馴染みの薄い「
HUNGAROTON」レーベルで聴くことができる。
ついでながらこの録音、大変質の高い音楽性に富んだ音質なのだ。
ヴァイオリニストのタートライがリーダーの弦楽四重奏。
飾り気なく伸びやかで明るい、弦の音色豊かな名演奏だと思います。
作品は適切な表現者演奏家によってその真価本領が納得され、
醍醐味が味わえる。
銘茶は適格な名水によってそのすべてが引き出されるようなものだ。
ハイドン山のフィールドは多くの楽しみを擁して来るものを待っている。


台風18号一過

夜中にゴーと我が家を揺らした強風。
短時間だったが風の恐ろしさを感じた。
一夜明ければ青空から差す陽の強さは痛いほど。
一気に夏日が戻ってきてしまった。
落ちた柿を拾いゴミ箱へ、おっとクモの巣に頭がかかり・・くそっ。
風にも耐えた巣は我が手に落とされ、クモは慌てふためき逃げ去る。
その姿様子ったら、人間も風呂場で急を襲われたら・・と思うと可笑しかった。
小布施への道に連なるリンゴ畑、風の影響はどうだったか被害はなかったかと
通ってきたが、落果はそれほどでもないように見えた。
小山社長の話では、小布施は山際の風の通り道で被害が出たという。
山際は地形が複雑だから狭い地域で風は七変化する。
台風は毎年各地に被害が出る、しかしここ信州は山が風を防ぎ被害は少ない。
何年かぶりの台風による強風が通り道となった場所はなんとも不運だった。
秋の収穫はこれからが本番。
今後の無事を祈りたい。



高橋竹山三味線ライブ

高橋竹山三味線ライブ
2017/9/16(土)
会場 小布施バド 穀平味噌駐車場の奥 駐車場有り
   026-251-4033  予約受付は木・金・土・日12時~17時
開場 18.30  /開演 19.00
料金 4,000円 定員40名 自由席

2017竹山表面



中村早智with坂根格カルテット

BUD JAZZ LIVE  
2017/7/30  
14:00~16:00


中村早智[1] 500


 

藤井貴宏オーボエコンサート

藤井貴宏オーボエコンサート

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音を聴く~ハイドンの「ひばり」~

ハイドンと云えば弦楽四重奏曲「ひばり」がポピュラーですね。
僕はハイドンの細やかな心の内を写し取ったような第二楽章の
例えようもない響きがとても好きです。
この曲をカペーはどこまでも掘り下げ、深遠な響きで演奏しています。
こういう演奏は 未知との遭遇のようで、どこからやってきたのかはかりようもなく、
生命の泉に触れたかのごとき驚きと感動に満たされます。
カペーのハイドンをもっと聴きたいのですがほかになく残念です。
僕にとって「ひばり」はハイドンの偉大さ、カペーの素晴らしさに
出会った曲でした。

 

安倍が蒔いた種

国民の心に、安倍が蒔き続けた種が、
東京で見事な花を咲かせた。
この功績は実に偉大だ。
萎れて散った安倍は、
戦後に咲いた大日本帝国の徒花。
 有権者は育てた愚かさに気付き、
賢くも切り捨てた。 
それは、日本の政治における最終的な責任と権力は、
国の主権者たる有権者の判断にある、
ということを知らしめた。 
 

音を聴く「ノイマンのモノラルカートリッジ」

Mさんのところでノイマンのモノラルカートリッジを聴いてきた。
カートリッジの話から入ってしまったが、今日の主役は
WE社の4151と555を組み込んだモノラル用スピーカー。
ウーファーをJensen から取り替えどう変わったのか聞きにいったのだが・・。
オルトフォンの角付きで聴いている最中も、
Mさんはノイマンのセッティングに余念がない。
果たしては今日は聴けるのか、気を揉みながら作業を見守る内に
調整が終わり、いよいよ音が出ることに。
音が出た瞬間、音の景色がガラッと変わって聞こえてきた。
ノイマンはスピーカーの音を一変 させてしまったのだ。
 エエッ、オオッ、驚きと感動が同時に押し寄せてきた。
レコードに入っている音がどんなに素晴らしいものなのか。
なにをもってレコード芸術と称するのか。
抜けるような音場に、美が宿る細部が見事なまでに再生される。
聴くものの心と音楽を親密に 近づける魔力を秘めた響き。

確かにレコードは芸術を再現しているではないか。
 ハイファイの語はあふれているが、
なにをもってhigh fidelityと称しているのか。
その真の意味、答えを見つけたような気がした。
ノイマンがトレースした再生音は、
山高く渓深い奥行きのある山容ともいうべき
サウンドのクッキリした全体像。
もちろん、これは録音など高度なレコード制作技術があってのこと。
当然の事ながらどんな再生機器も、
レコードに入っている音質以上の音は出てこない。
ここでhigh fidelityオーディオの原点はレコードだと、
出発点に回帰したことを再確認する。

こんな音があったのだ。 
ノイマン、おそるべし。

針はLPとSPがターンオーバーで使えるようになっています。
オリジナルは専用アームのウエイト部にトランス内蔵。 
しかし、資料がなく詳細な仕様は不明とのことです。

それにしてもです。
測定具など不要と耳だけを頼りに、
部品選びは経験知で勘所を押さえ、
ここまで音 作りしてきたMさん。
今回はかってない、パーッと開けた音の風景を
手に入れたのではないでしょうか。 

文を読む「六字」

「六字」とは「南無阿弥陀仏」
柳 宗悦著「南無阿弥陀仏」

日常、宗教に無縁な生活を送っている自分にとって、
最も身近かな宗教的言葉は「南無阿弥陀仏」
その実中味は知らずに過ごしてきた。
それこそ宗教とは無縁の人生。
それで何の不都合もなく生活できている。
世に宗教の本はあふれているけれど、
何の為なのか必要を認めず通り過ぎてきた。 
教養のための宗教的知識にも興味はなかった。
それが何故に「南無阿弥陀仏」を読むに至ったか、
自分でもよくわからない。
柳の文章はわかりやすく読みやすい。
かと言って文は宗教的体験のない自分の外側にある、
知識以上のものでないのも事実。
ただ、仏性というものは生きとしいけるもの全てに存し、
生まれ出ずる由縁とも、死して帰るところ でもある。
と、いうことが会得されるような気持ちになった。
それは自分の体を作っている60兆ともいわれる細胞中の
遺伝子の 中に、仏が備わっているというイメージにつながる 。
読み進んでここまでは知識の延長だったが、
18章仮名法語に至って、『一遍上人語録』に載せてある消息文の一つ。
その言葉に教文として初めて心引かれるものを覚えた。
以下に引くこの言葉は自分の内側のものとして共に歩めそうだと。
 空んじて 口遊みたい。

「夫れ、念仏の行者用心のこと、示すべき由承り候。
南無阿弥陀仏と申す外さらに用心もなく、この外にまた示すべき安心もなし。
諸々の智者達の様々に立てをかるる法要どもの侍るも、皆諸惑に対したる仮初めの要文なり。
されば念仏の行者は、かような事をも打ち捨てて念仏すべし。
むかし、空也上人へ、ある人、念仏はいかが申すべきやと問いければ、
「捨ててこそ」とばかりにて、なにとも仰せられずと、
西行法師の『選集抄』に載せられたり。これ誠に金言なり。
念仏の行者は智慧をも愚痴をも捨て、善悪の境界をも捨て、貴賤高下の道理をも捨て、
地獄をおそるる心をも捨て、極楽を願う心をも捨て、また諸宗の悟りをも捨て、
一切の事を捨てて申す念仏こそ、弥陀超世の本願には、かなひ候へ。
かように打ち上げ打ち上げ、唱ふれば、仏もなく我もなく、ましてこの内に兎角の道理もなし。
 善悪の境界皆浄土なり。外に求むべからず。厭ふべからず。
よろづ生きとし生けるもの、山河草木、吹く風、立つ浪の音までも、
念仏ならずといふことなし。人ばかり超世の願に預かるにあらず。
またかくの如く愚老が申す事も意得にくく候はば、意得にくきにまかせて、
愚老が申す事をも打ち捨て、何ともかともあてがひはからずして、本願に任せて念仏し給うべし。
念仏は安心して申すも、安心せず申すも、他力超世の本願にたがふ事なし。
 弥陀の本願には欠けたる事もなく、余れる事もなし。この外にさのみ何事をか用心して申すべき。
ただ愚なる者の心に立ち返りて念仏し給うべし。南無阿弥陀仏。  一遍」。



 
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