権堂のロキシーで「ニッポンの嘘」を観てきました。
今日が最終日なので、やむを得ず店は4時で早じまい。
90歳のフォトジャーナリスト福島菊次郎の軌跡。
その存在と活動は奇跡としか言いようのない、
強い衝撃と畏怖と敬意が伴う感動がありました。
そしてよくこんな映画がつくれたものだという感動もまた。

「ニッポンの嘘」は広く「権力の嘘」と置き替えてもいいでしょう。
政府は国策始め様々な政策を立案し実行に移します。
それが政治であり政府(=権力)の権限であり責任であるわけです。
しかし、その結果が明らかな失敗(敗戦、原子力事故、公害、薬害)
であったとした場合、被害を受けた国家の主権者たる国民に、
そのシモベたる役所と信託を受けた政府はどんな態度に出るか、
それはもう十分に見てきたとおりです。

そしてそれは、どこのどんな国の政体の政府(権力)も、都合の悪いことは
隠して責任を認めず、「権力の嘘」を言い張り続けるものなのですね。

天皇は戦後の記者会見で戦争責任を問われ、
「そういう言葉のアヤについては、私は、そういう文学方面はあんまり
研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題については
お答え出来かねます」と発言したことを採りあげて、
日本人自身の手によって総括され反省されていない戦争を、
このままに放って於いていいのか、と
「天皇の戦争責任展」で福島さんは問いかけています。

天皇の戦争責任は天皇個人というより、天皇制度は、
権力が国民を心理的に支配し、失政責任回避の究極道具として、
必要欠くべからざる誠に都合のいい国家政治体制でしょう。だから、
天皇が記者会見で陳べた言葉のアヤは、戦後も権力支配体制階級の
本音なんですね。戦後の民主主義政府権力が、失政によって犠牲になった
国民に対する責任も、随分と役所的政治的な言葉のアヤで逃げまくって
いたではないですか。権力が国民をみる冷ややかな態度は、
戦前も戦後もそう大きく変わっていないようですね。
福島原発事故から国民の関心をそらし、放射能汚染の実態を隠し、
国民の目を領土問題にすり替えることに尖閣問題を利用している。
戦後民主主義はなお道遠しのようです。

僕は日本が未だアメリカから独立出来ないこと、
政治家が幼稚で稚拙なこと、日本国民が道徳的精神的に後退していること、
その結果として今日の日本国の混迷があり、
その真の根本的な原因理由の大半は、
戦争責任を日本人自身の手によって総括していない、
という倫理的な問題に行き着くような気がしてなりません。