日頃、人生は日々好日にして日々更新、
日々吉日であったらいいなあと思っています。
その心は、くよくよせずに、よりよい明日という
可能性を希望にして生きていきたい。という気持ちです。
人生最後の日は大安吉日で終わりたい。
そうです、いくつになっても思い立ったが吉日。
毎日吉日という種を蒔いて、やりたいことをやって、
人生の花を咲かし続けられたらどんなにいいでしょう。

さて、日韓日中はよく歴史認識で問題になりますが、
よりよい明日のために歴史を学び、自分なりの歴史観を
持つことは、国民の常識として言うまでもなく大切なことです。
司馬さんはこんなことを言っています。

~韓(から)のくに紀行~から
 明治のころ、日本の東洋学の学者で朝鮮史に関心をもつ多くが、日韓同祖論という気分であり、喜田貞吉などはその代表的な存在であった。日本にコンパスの針を置くことさえやめれば、大きい場所で私はいまでもこれらの考えがまちがっているとは思わないが、しかしこの種の学説は朝鮮人を決してよろこばさなかった。
 その機微は、朝鮮人の立場に立って考えてみればわかる。日本よりも古い時代から堂々たる文明と独立国を営んだ歴史をもつ朝鮮人にとって、漢文用語でいう東海の島夷(日本)が、にわかに偉そうぶって、「お前たちとおれたちとは先祖は同じだよ」どうだ、うれしいだろう、という態度でいったところで、誰がよろこぶか。