小布施のジャズ喫茶 BUD

♪日々好音の米蔵空間で薫り高い神戸萩原の炭火焙煎コーヒーを♪

音を聴く

音を聴く「モーツァルト」は・・

星が降るように、雪が舞うように、
風がそよぐように、せせらぎのように、
森羅万象 が囁くように、
心の風景が雲となって流れるように、
音の糸が紡がれていくように音楽は現れてくる。
そしてサラサラと譜面になっていく。
モーツァルトは人間の苦悩を清らかにするフィルター
として、この世に使わせられたのでは・・。
すべてを引き受けた意識もなく、
苦悩も苦労も努力の 痕跡などどこにも見あたらない。
人間的天才が作るものを超えて、
ただ全き音の世界をこの世にもたらした。

そう思いませんか。

音を聴く「故きを温ねて」

古道具(ふるどうぐ・こどうぐ)とは言うけれど、
それを故道具とは書かない。
その考えは古い旧時代のものだ。
古代人(古い人の骨)とは言うも、故代人とは書かない。
ふるいというと古いか旧いと書くが故いと書くことはまずない。
など、その違いは多くの例がまだたくさんあるだろう。
そこで思うのだが、故には他の二字とは違い、
どこか精神性というものを宿しているように感じられる。
古と旧は経過した時間の彼方を表しているのに対し、
故は過去現在未来を内包している、といってもいい。

旧いレコード盤に刻まれた溝から出てくる響きの中に、
100年の時を超え、人間精神の輝きが音の波となり、
現代人の心に押し寄せてくる。
SP盤も蓄音機も古道具だが、そこから出てくるパーカーのサックスに、
カルーソーの歌声には、今出会っているような生命の躍動がある。
人はしばしばそのような個人的体験に欣喜雀躍する。








音を聴く「オーディオの基本」

オーディオとは録音された音を再生すること一般をいいます。
ここではレコード盤再生についてお話します。
音楽鑑賞用の商業円盤レコード制作は約100年の歴史があります。
それに合わせ再生機である蓄音器も同時に作られました。
 音楽の録音と再生は時代の最先端技術であるとともに、
人間が持っている最高度の感性と知性の結晶といえます。
それは今も100年前も変わりありません。
100年前に録音されたSP盤の音は、
100年前の蓄音器の再生音で完結しています。
これ以上のハイファイ(高忠実度再生)はありません。
つまり「オーディオの基本」とは、
録音された時代に合致した再生機器で聴くという事にほかなりません。
古いものには古いものでということなのですが、
古い再生機器に新しい録音のレコードは窮屈(高低域不足)でも許容できます。
ですが、新しい再生機器で古いレコードを再生すると腑抜けて(中域不足)しまいます。
これをわかりやすく料理にたとえて言うと、
高音と低音はダシとスパイス、中音は素材そのものの旨みとなります。
かくして、一つのセットで100年間の録音全てをレコードであれCDであれ、
録音時の音そのままのように再生できないのが、
ハイファイオーディオの悩ましいところです。
さて、蛇足になりますが、ジャズにはJBLがいいとか、
英デッカ盤にはデッカのカートリッジが合っているとかetcは、
さらなるものを求める個々の趣味性になると思います。
とにもかくにも再生された音とどう向き合い聴くか、
それはもう全人格をかけて演奏している音楽家の演奏音の響き、
その波長 に自分の感性が合うか 否かということだと思います。



 

音を聴く「SPの衝撃」

〈Kさん宅で〉
新しいソガフォンでSPを聴く機会に同席させてもらいました。
ソガフォンを装着した蓄音機はHMV101と102。
使い分けは概ね101は機械録音用で102は電気録音向け。
プレイヤー に付いたカートリッジはクリスタル型。
これで音を拾い真空管アンプで増幅しソガフォンを鳴らす。
ソガフォンから出た音はHMVのホーンで増幅されることになるが、
電気(パワーアンプ)を通すので 、
力強く硬めで刺激的になるのはやむを得ない。
1時間余り聴いた後、LPのステレオ盤を大型スピーカーで鳴らす。
聴いた途端、音の濃さの違いに唖然とする。
SPの音が耳元からずっと奥まで詰まっていて、
LPの音は耳に届いてこない。
スピーカーがパクパクしているように見える。
かくもLPとSPではパンチ力に差がありすぎて勝負にならない。
みんなも「マイッタなあ」と呆れ顔。
今度は順序を間違えないようにしよう!と一致したのだった。

 

音を聴く「スカルラッティのソナタ」

音楽はほとんどレコードとCDで聴いているが、
その大半は手持ちのもので新たに買い求めたもは少ない。
それでもその全部を聴いているわけでなく、
しかもある程度は傾向が決まっている。
中にしばらく聴いていないものを引っ張り出して、
結果として処分を決めることもある。
あるいはその良さにやっと気づかされるものもある。
今日聴いたクララ・ハスキルの「スカルラッティのソナタ」は、
まさにそんな一枚だった。
こうした気付き、ささやかな発見との出会いは、
音楽を聴く喜びの一つになっている。
それは考古学者が長年保管していた骨が、
恐竜のものだと気がついた瞬間に訪れる感動に似てる、かな。
ハスキルは演奏と曲の素晴らしさを同時にもたらしてくれた。
そこで、手持ちの中から「スカルラッティのソナタ」を
アリシア・デ・ラローチャとマルセル・メイエで聴いてみた。
たおやかなラローチャ、きっちりとしたメイエ、個性が際立つ二人。
ともに好きなピアニスト。





音を聴く「心で聴く」

先日、バドで蓄音機を聴いたときのこと。
クラシック、ジャズ、歌謡曲、シャンソンなど、
それぞれ持ち寄ったSPを楽しみました。
その中に、3種類の「テネシーワルツ」がありました。
パティ・ペイジ1950年録音、ジョー・スタッフォード1951年録音、
江利チエミ1952年録音 のSPです。
聴いた感想ですが、僕はジョー・スタッフォードの洒脱なジャズフィーリング
が好きだなあと漏らしたところ、Kさんは江利チエミが好きだというので、
意外だなと思っていると、
「一生懸命さがなんともいえずとてもいい」とおっしゃる。
Kさんの音楽好きは自他ともに認めるところですが、
いつも心で感じたことを大切にして、
正直な気持ちで聴いているんだと、
微笑ましくも感心してしまった。
趣味はこうでなくっちゃね。
 

音を聴く「ハイドン」

人はいつ何に惚れるかわからない。
この待ち伏せに出会うのは、不思議な驚きと面白さがあります。
この面白さの体験は生きる喜びと楽しさなんですね。
ホントによくわからないんだよね、好きになるというのは。
ハイドンさんが山のように川のように現れて登ったり下ったり。
いつしかハイドン山に登り始め、その魅力に虜になっている。
この山は裾野が広く実に大きい。
登り口がいっぱいある。
交響曲107曲、弦楽四重奏曲78曲、ピアノソナタ58曲、
ピアノ三重奏曲41曲、それに各協奏曲などなど、まだまだ・・。

ハイドンさんとのご縁は20年以上前に買った、
ドラティ指揮ハンガリー交響楽団の交響曲全集。
イギリスプレスのロンドンレーベル盤。
なんと20年も置き去りにされ、今出番が回ってきました。
そして今、ハイドンさんのお導きでハンガリー盤とご縁に。
というのもハイドンはハンガリーとは大変深い関わりがあります。
ハイドンは1732年3月31日ハンガリーに近いローラウに生まれ 、
1809年5月31日に亡くなる
77年の生涯の中で、30から60までの
30年間、ハンガリーの大貴族エステルハージ家の楽長をしていました。
そんなこともあってか、ハンガリーの音楽界はハイドンを深く愛している。
ドラティを始めハンガリーの音楽家による演奏がたくさん録音されている。
それらは日本では馴染みの薄い「
HUNGAROTON」レーベルで聴くことができる。
ついでながらこの録音、大変質の高い音楽性に富んだ音質なのだ。
ヴァイオリニストのタートライがリーダーの弦楽四重奏。
飾り気なく伸びやかで明るい、弦の音色豊かな名演奏だと思います。
作品は適切な表現者演奏家によってその真価本領が納得され、
醍醐味が味わえる。
銘茶は適格な名水によってそのすべてが引き出されるようなものだ。
ハイドン山のフィールドは多くの楽しみを擁して来るものを待っている。


音を聴く~ハイドンの「ひばり」~

ハイドンと云えば弦楽四重奏曲「ひばり」がポピュラーですね。
僕はハイドンの細やかな心の内を写し取ったような第二楽章の
例えようもない響きがとても好きです。
この曲をカペーはどこまでも掘り下げ、深遠な響きで演奏しています。
こういう演奏は 未知との遭遇のようで、どこからやってきたのかはかりようもなく、
生命の泉に触れたかのごとき驚きと感動に満たされます。
カペーのハイドンをもっと聴きたいのですがほかになく残念です。
僕にとって「ひばり」はハイドンの偉大さ、カペーの素晴らしさに
出会った曲でした。

 

音を聴く「ノイマンのモノラルカートリッジ」

Mさんのところでノイマンのモノラルカートリッジを聴いてきた。
カートリッジの話から入ってしまったが、今日の主役は
WE社の4151と555を組み込んだモノラル用スピーカー。
ウーファーをJensen から取り替えどう変わったのか聞きにいったのだが・・。
オルトフォンの角付きで聴いている最中も、
Mさんはノイマンのセッティングに余念がない。
果たしては今日は聴けるのか、気を揉みながら作業を見守る内に
調整が終わり、いよいよ音が出ることに。
音が出た瞬間、音の景色がガラッと変わって聞こえてきた。
ノイマンはスピーカーの音を一変 させてしまったのだ。
 エエッ、オオッ、驚きと感動が同時に押し寄せてきた。
レコードに入っている音がどんなに素晴らしいものなのか。
なにをもってレコード芸術と称するのか。
抜けるような音場に、美が宿る細部が見事なまでに再生される。
聴くものの心と音楽を親密に 近づける魔力を秘めた響き。

確かにレコードは芸術を再現しているではないか。
 ハイファイの語はあふれているが、
なにをもってhigh fidelityと称しているのか。
その真の意味、答えを見つけたような気がした。
ノイマンがトレースした再生音は、
山高く渓深い奥行きのある山容ともいうべき
サウンドのクッキリした全体像。
もちろん、これは録音など高度なレコード制作技術があってのこと。
当然の事ながらどんな再生機器も、
レコードに入っている音質以上の音は出てこない。
ここでhigh fidelityオーディオの原点はレコードだと、
出発点に回帰したことを再確認する。

こんな音があったのだ。 
ノイマン、おそるべし。

針はLPとSPがターンオーバーで使えるようになっています。
オリジナルは専用アームのウエイト部にトランス内蔵。 
しかし、資料がなく詳細な仕様は不明とのことです。

それにしてもです。
測定具など不要と耳だけを頼りに、
部品選びは経験知で勘所を押さえ、
ここまで音 作りしてきたMさん。
今回はかってない、パーッと開けた音の風景を
手に入れたのではないでしょうか。 

音を聴く~心に残る音と演奏~

~この人の音で曲は音楽になる~ 

Bella  Davidovich は1928年7月16日生まれのアゼルバイジャン出身ユダヤ系ピヤニスト
1949年第4回ショパン国際コンクール優勝者 モスクワ音楽院首席卒業
1950年ヴァイオリニストの ユリアン・シトコヴェッキーと結婚
1956年シトコヴェッキー死去
 夫妻はロシア当局との折り合いが悪かったようでロシアでの活動の
詳細はわからないが、二人の実力に見合った録音は 多くない。
共演した録音は手元にある限りわずか2曲。
モーツァルトとタルティーニの ヴァイオリンとピアノのソナタのみ。
1978年米国 に亡命し1982年からジュリアード音楽院で教え現在に至る。

音声と節回し(音程とリズム)から音楽は生まれ、
精妙な音は人の心深くに届く。
演奏される一音一音は感情(喜怒哀楽 )や
美意識(人格、精神)を表現する。
いってみれば音は演奏する人そのもの。
音は言葉のように嘘をつかない。
だから人は音楽を心から楽しむ。音そのものにとり憑かれる。
当たり前ですが曲というのは譜面にある通り機械的に演奏しては、
作曲者の内面までは表現できませんね。
曲にあった音色と響きを吹き込んで初めて血が通い魂が宿る。
言ってみれば音は譜面を行き交う精霊にならないと音楽にならないのです。
 
ダヴィドヴィッチを初めて聴いたのは1982年彼女が54歳の時に録音したショパン。
バラード4曲、即興曲4曲と 24の前奏曲が入った2枚組のCD。
滑らかな親しみある演奏で大変聴きやすい。
 角の取れた柔らかさは年齢もあるが彼女の特質と天賦の才による所が大きい。
そんな力を抜いた穏やかな演奏をするダヴィドヴィッチだが、
60年頃はもっと溌剌とした演奏をしていたようだ。
これを書く切っ掛けになったのは、1960年32歳に録音した
サン・サーンスのピアノ協奏曲2番ト短調を聴いたからだった。
初めて聴く曲だったが曲想と彼女のピアノがマッチしていて、
気負いのない演奏が気持ちよく耳に届き心に響いた。
技術的な切れ味と溌剌とした躍動感は若いから当然といえばそれまでだが、
それ以上に彼女の内面が放つ美質な音が聞こえてくる。
一言でいえば懐が深い、控え目だけど輝いている、地味だけど艶やかな音。
清々しい音は惚れ惚れと身にしみてじっと聴き入る。 
聞き飽きることのない音色で演奏する60年頃の録音をもっともっと、
CDではなくレコードで聴いてみたくなった。
 
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