小布施のジャズ喫茶 BUD

♪日々好音の米蔵空間で薫り高い神戸萩原の炭火焙煎コーヒーを♪

音を聴く

音を聴く「最高の音」

好きな音楽を最高の音で聴きたい。
現在持っているレコードやCDを
もっといい音で楽しみたい。
そう思ってまず考えるのは、
オーディオ装置機器のグレードアップだと思う。
さて、そこで問題になるのが予算ですね。
その前にどうグレードアップするのか、
どういう音にしたいのかイメージを持つことが大事。
イメージが決まったら、経験豊かで欲のない人に相談すること。
その上で予算は決まってくるはずです。
大事なのは欲張らないこと。 
アップして、良くなったなあと思ったらよし。
気持ちよく楽しめてこそ音楽。
いつまでも音に引っかかっていてはいけませんよ。
これが今聞ける最高の音なんです。
ここからは余談ですが、
掛けているレコードの音が今ひとつと思ったら、
もしそのレコードが復刻盤だったら、
一度オリジナル盤を聴いてみてはどうでしょう。
ひょっとすると、最高の音は最高の音質のレコードから
始まると、気がつくかもしれませんよ。

音は電気信号が波動になりスピーカーから聞こえてきますが、
その源流にあるのはレコードです。
レコード盤をダムに喩えれば、ダムに貯まった水は音楽。
ダムの水質はレコード盤の音質、その品質の良否は、
スピーカーから出てくる音の良否に影響します。
音楽と音にとってレコード盤という元がいかに大切か、
それはときに機器以上です。
 


 

音を聴く「音楽の力」とは

音楽は多少の思い出を残しながら消えていく。
強い感動さえ時がたてば薄れていく。
僕、あるいは人は音楽になにを求めているのだろうか。

たまたま今読んでいる本にこんな文章がありました。
岡田暁生著「クラシック音楽とは何か」
『日常への定住を拒む力-これこそ音楽が私たちに与える希望の力の源泉だと思う。
旅は今も昔も危うい。何が起きるかわからない。危険に満ちている。 
もし怖い目に遭うのが嫌であるなら、旅になど出ず、家の中でじっとしていればいい。
しかし家にこもってばかりいて、外の世界が消滅した日常の中で惰眠をむさぼっている者に、
「希望」はないであろう。自分が住む世界の「外」を見てみたいと思うことこそ「夢」であり、
あちらにあるのがここよりもよい世界であるかもしれないと考えることが「希望」であるとするなら、
翻ってこちらの世界を少しでもよいものにしようとすることは日々の生の活力にもつながるであろう。
音楽に-昨今流行の言い方をすれば-「癒やす」力があるとすれば、それはこのような意味においてである。家にいながらにして、まるで安楽椅子に寝そべり、受け身でマッサージを受けるようにして音楽に耳を傾ける者に、決して音楽が本来持っている「癒やす力」は与えられないと私は確信している。』

力強い言葉です。
ですが僕は「寝そべりながら派」なので、 
力を抜いて次へと読み進みました。
もちろん外の空気を吸いにいく旅は好きです。
それもできるだけ安全で景色が良く美味しいものがあるところへです。

じゃああんたはナンデ音楽聴いているのと聞かれれば、
受け身で時間から逃避している、というほかありません。 
無為の時間から心を守る隠れ家の役割を担っているとも言えます。
人は本能的に無為を避けたがりますからね。
だから無為を避ける行為に人は走る。
パチンコ、テレビ、そして音楽もまた。
これらはみな時間を忘れさせる伴走者なのだと思う。

となれば音楽とは、日常を安定させるものだと思うのです。
 

音を聴く「tone sense」

普段Mさんとお呼びしているその人は、
オーディオでいざ困ったときお世話になる、
掛かり付けの医者のようなオーディオドクターです。
ドクターの役割は正確な診断と処置 による回復作業。 
信頼されるには技術や経験はもちろんですが、大事なのは見識です。
Mさんを信頼する理由はそこにあります。

さて、音楽をどんな聴き方で聴いているかというと、
それはそれ人様々ですが、僕が聴いているのは演奏家の音。
僕にとって音楽を聴くという行為は、音楽の全てに
演奏家が出しているtone senseを『聴く』ことです。
いい演奏はtone senseの共有にあります。
レコードとオーディオのサウンドクオリティは、
tone sensenをより良く反映していることが基本で、
それ以上のサウンドクオリティを『聞き』たい気持ちはあまりありません。

いつだったか演奏家のtone sense 、その波長を感知するセンスについて、
Mさんと同じ思いでやりとりしたことを憶えています。



音を聴く「耳利き」

この器なかなか良いね。
あなたって目利きね。

この演奏とても良いね。
あなたって耳利きね。
ん、いや左利きだよ。 

目利きというのは審美眼 (美を識別する能力)を持っている人。
その能力をさらに高め確かな審美眼を身につけるために、
「本物をたくさん見なさい」とはよく言われること。
 
そもそも「美とは」何かと問われれば、
お金や優劣とは無縁のところにある「豊かさ」だと思う。 
人はそれぞれ独自の鋭い感覚を誰も持っているものだ。
それは音楽だったり料理や美術に対してだったりする。
感覚という収集器で日々集められたら情報の集積という経験を通し、
審美眼は信じられる能力になっていく。
このようにして美を内に感じられるようになることが、
人の内面を豊かにするのじゃないだろうか。 

いい音楽をたくさん聴いて「キキモノ」になりましょう。
 

音を聴く『今年も』いい音楽を

ジャズ喫茶をやっているからといって、
ジャズばかり聴いているわけではありません。
いいなあと感じ、面白いなあと思うものは何でもござれです。
僕はコルトレーン世代、その時分は分かろうが分かるまいが、
したがって分からないまま、しゃにむにひたすら
ジャズなるものに向かい合っていました。
1965年から1975年頃までのことです。
分からないながらも50年以上聴き続けてきたのは自分でも不思議です。
どこか心にある空白を他ではないジャズで埋めていたのかもしれません。
しかし、年を取り最近は若い頃聴かなかったものを聴くようになりました。

それはまず老若問わず未知なる分野への好奇心から始まるものです。
若い頃は今様に夢中になるのが成り行きというものですが、
年を取ると今様は自然と離れこちらに近づいてきません。
そこに年取った好奇心の空白は年代を遡り、
歴史と伝統を猟歩し始めるのです。
さあ、1940年代から30年、さらの20年代へ。
心浮き立ついい音楽を聴きに行きましょう。



音を聴く「モーツァルト」は・・

星が瞬くように、雪が舞うように、
風がそよぐように、せせらぎのように、
森羅万象 が囁くように、
心の風景が雲となって流れるように、
音の糸が紡がれていくように音楽は現れてくる。
そしてサラサラと譜面になっていく。
モーツァルトは人間の苦悩を清らかにするフィルター
として、この世に使わせられたのでは・・。
すべてを引き受けた意識もなく、
苦悩も苦労も努力の 痕跡などどこにも見あたらない。
人間的天才が作るものを超えて、
ただ全き音の世界(福音譜)をこの世にもたらした。


音を聴く「故きを温ねて」

古道具(ふるどうぐ・こどうぐ)とは言うけれど、
それを故道具とは書かない。
その考えは古い旧時代のものだ。
古代人(古い人の骨)とは言うも、故代人とは書かない。
ふるいというと古いか旧いと書くが故いと書くことはまずない。
など、その違いは多くの例がまだたくさんある。
そこで思うのだが、故には他の二字とは違い、
どこか精神性というものを宿しているように感じられる。
古と旧は経過した時間の彼方を表しているのに対し、
故は過去現在未来を内包している、といってもいい。

旧いレコード盤に刻まれた溝から出てくる響きの中に、
100年の時を超え、人間精神の輝きが音の波となり、
現代人の心に押し寄せてくる。
SP盤も蓄音機も古道具だが、そこから出てくるパーカーのサックスに、
カルーソーの歌声には、今出会っているような生命の躍動がある。
人はしばしばそのような個人的体験に欣喜雀躍する。








音を聴く「オーディオの基本」

オーディオとは録音された音を再生すること一般をいいます。
ここではレコード盤再生についてお話します。
音楽鑑賞用の商業円盤レコード制作は約100年の歴史があります。
それに合わせ再生機である蓄音器も同時に作られました。
 音楽の録音と再生は時代の最先端技術であるとともに、
人間が持っている最高度の感性と知性の結晶といえます。
それは今も100年前も変わりありません。
100年前に録音されたSP盤の音は、
100年前の蓄音器の再生音で完結しています。
これ以上のハイファイ(高忠実度再生)はありません。
つまり「オーディオの基本」とは、
録音された時代に合致した再生機器で聴くという事にほかなりません。
古いものには古いものでということなのですが、
古い再生機器に新しい録音のレコードは窮屈(高低域不足)でも許容できます。
ですが、新しい再生機器で古いレコードを再生すると腑抜けて(中域不足)しまいます。
これをわかりやすく料理にたとえて言うと、
高音と低音はダシとスパイス、中音は素材そのものの旨みとなります。
かくして、一つのセットで100年間の録音全てをレコードであれCDであれ、
録音時の音そのままのように再生できないのが、
ハイファイオーディオの悩ましいところです。
さて、蛇足になりますが、ジャズにはJBLがいいとか、
英デッカ盤にはデッカのカートリッジが合っているとかetcは、
さらなるものを求める個々の趣味性になると思います。
とにもかくにも再生された音とどう向き合い聴くか、
それはもう全人格をかけて演奏している音楽家の演奏音の響き、
その波長 に自分の感性が合うか 否かということだと思います。



 

音を聴く「SPの衝撃」

〈Kさん宅で〉
新しいソガフォンでSPを聴く機会に同席させてもらいました。
ソガフォンを装着した蓄音機はHMV101と102。
使い分けは概ね101は機械録音用で102は電気録音向け。
プレイヤー に付いたカートリッジはクリスタル型。
これで音を拾い真空管アンプで増幅しソガフォンを鳴らす。
ソガフォンから出た音はHMVのホーンで増幅されることになるが、
電気(パワーアンプ)を通すので 、
力強く硬めで刺激的になるのはやむを得ない。
1時間余り聴いた後、LPのステレオ盤を大型スピーカーで鳴らす。
聴いた途端、音の濃さの違いに唖然とする。
SPの音が耳元からずっと奥まで詰まっていて、
LPの音は耳に届いてこない。
スピーカーがパクパクしているように見える。
かくもLPとSPではパンチ力に差がありすぎて勝負にならない。
みんなも「マイッタなあ」と呆れ顔。
今度は順序を間違えないようにしよう!と一致したのだった。

 

音を聴く「スカルラッティのソナタ」

音楽はほとんどレコードとCDで聴いているが、
その大半は手持ちのもので新たに買い求めたもは少ない。
それでもその全部を聴いているわけでなく、
しかもある程度は傾向が決まっている。
中にしばらく聴いていないものを引っ張り出して、
結果として処分を決めることもある。
あるいはその良さにやっと気づかされるものもある。
今日聴いたクララ・ハスキルの「スカルラッティのソナタ」は、
まさにそんな一枚だった。
こうした気付き、ささやかな発見との出会いは、
音楽を聴く喜びの一つになっている。
それは考古学者が長年保管していた骨が、
恐竜のものだと気がついた瞬間に訪れる感動に似てる、かな。
ハスキルは演奏と曲の素晴らしさを同時にもたらしてくれた。
そこで、手持ちの中から「スカルラッティのソナタ」を
アリシア・デ・ラローチャとマルセル・メイエで聴いてみた。
たおやかなラローチャ、きっちりとしたメイエ、個性が際立つ二人。
ともに好きなピアニスト。





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