「六字」とは「南無阿弥陀仏」
柳 宗悦著「南無阿弥陀仏」

日常、宗教に無縁な生活を送っている自分にとって、
最も身近かな宗教的言葉は「南無阿弥陀仏」
その実中味は知らずに過ごしてきた。
それこそ宗教とは無縁の人生。
それで何の不都合もなく生活できている。
世に宗教の本はあふれているけれど、
何の為なのか必要を認めず通り過ぎてきた。 
教養のための宗教的知識にも興味はなかった。
それが何故に「南無阿弥陀仏」を読むに至ったか、
自分でもよくわからない。
柳の文章はわかりやすく読みやすい。
かと言って文は宗教的体験のない自分の外側にある、
知識以上のものでないのも事実。
ただ、仏性というものは生きとしいけるもの全てに存し、
生まれ出ずる由縁とも、死して帰るところ でもある。
と、いうことが会得されるような気持ちになった。
それは自分の体を作っている60兆ともいわれる細胞中の
遺伝子の 中に、仏が備わっているというイメージにつながる 。
読み進んでここまでは知識の延長だったが、
18章仮名法語に至って、『一遍上人語録』に載せてある消息文の一つ。
その言葉に教文として初めて心引かれるものを覚えた。
以下に引くこの言葉は自分の内側のものとして共に歩めそうだと。
 空んじて 口遊みたい。

「夫れ、念仏の行者用心のこと、示すべき由承り候。
南無阿弥陀仏と申す外さらに用心もなく、この外にまた示すべき安心もなし。
諸々の智者達の様々に立てをかるる法要どもの侍るも、皆諸惑に対したる仮初めの要文なり。
されば念仏の行者は、かような事をも打ち捨てて念仏すべし。
むかし、空也上人へ、ある人、念仏はいかが申すべきやと問いければ、
「捨ててこそ」とばかりにて、なにとも仰せられずと、
西行法師の『選集抄』に載せられたり。これ誠に金言なり。
念仏の行者は智慧をも愚痴をも捨て、善悪の境界をも捨て、貴賤高下の道理をも捨て、
地獄をおそるる心をも捨て、極楽を願う心をも捨て、また諸宗の悟りをも捨て、
一切の事を捨てて申す念仏こそ、弥陀超世の本願には、かなひ候へ。
かように打ち上げ打ち上げ、唱ふれば、仏もなく我もなく、ましてこの内に兎角の道理もなし。
 善悪の境界皆浄土なり。外に求むべからず。厭ふべからず。
よろづ生きとし生けるもの、山河草木、吹く風、立つ浪の音までも、
念仏ならずといふことなし。人ばかり超世の願に預かるにあらず。
またかくの如く愚老が申す事も意得にくく候はば、意得にくきにまかせて、
愚老が申す事をも打ち捨て、何ともかともあてがひはからずして、本願に任せて念仏し給うべし。
念仏は安心して申すも、安心せず申すも、他力超世の本願にたがふ事なし。
 弥陀の本願には欠けたる事もなく、余れる事もなし。この外にさのみ何事をか用心して申すべき。
ただ愚なる者の心に立ち返りて念仏し給うべし。南無阿弥陀仏。  一遍」。