長野相生座でドキュメンタリー映画「岡本太郎の沖縄」を観る。
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日本人は沖縄を「オキナワ」と心の中で言い換えているのではないか。
それは、「アイヌ民族」を同じ日本人とは、
心の底から思っていないことに通じている。
でなくば、なんでアメリカ軍の基地オキナワにしておくことができようか。
これは日本敗戦の不始末をオキナワに押しつけて尻ぬぐいさせているわけで、
よくもまあこんなひどい理不尽をしてほっかむりしていられるものだと、
不人情極まる日本人の非人情にはホトホトあきれかえってしまう。
過ちを認め反省し謝罪することが出来ない日本の官僚権力国家は、
沖縄に対して申し訳ないという恥ずかしさなど絶対に見せない。
謝らないで金で済まそうという卑しい根性が丸見えになっている。
実にオキナワはニッポンの鏡だ。
その沖縄に岡本太郎は原日本をみてとった。
岡本太郎の鋭い直感とさえた感性は生活というベールを剥ぎ、
渇望した生々しい命の発露を見た。
沖縄にはまだ生かされている生命が、からがらに生き続けている。
生活というスタイルを持たなかった生が命を連続させている様をみた。
それは原始の「いのち」を伝える神事「イザイホー」だった。
沖縄へのまなざしは歴史文化を学び知ることから始まります。
どうしたら同胞の痛みを分かち合えるのか、自分が問われている。