人間について考える、というかこの本を読みながら考えさせられる。
いつの間にか考えずにはいられなくなっている。
人間の苦界と浄土。この世とあの世。欲得の世と魂の世のことを。
深く追求するわけではないけれど感ずることは多い。

宇宙のなりたちから地球の生成、そして生命の誕生とDNAの神秘。
環境の変化に対応してきた生物の多様性の気の遠くなるような歴史。
そして人類の誕生と人間社会の歴史は、
人間の知が産んだ苦界と浄土に漂着する。
さらに、この先何を拠り所に何処へ向かって行くのか。
それは魂を置き去りにして、知はひたすら極限のミクロを求ていくのか。
しかし、そのミクロは決して生命として再構成されることはないだろう。
そんなことを思い考えながら本を読みページをめくる。

人間は知情意において個々が余りにも大きい振幅を持っている。
それはなんと輝やかしくも、また愚かさをも、もたらしていることか。
命とは魂とは、そんなことを考える遑もなく時間は過ぎる。
本当に、何処へ向かって生きているのだろうかなどとは考えもせずして。
考えてどうにか成るものでもないとばかりに日々生きている。
しかし、苦界という不条理、人間によってもたらされた不条理。
目を閉じて放っておけない不条理は現実に存在する。
損得で売り渡すことができない水俣病の不条理。
石牟礼さんはおこされた水俣病の不条理に魂をもって荷担する。

「苦界浄土」三部作は一貫した物語性を持った連作ではありません。
ルポルタージュでありファンタジーであり詩でもあります。
一貫しているのは 水俣病患者の背負った不条理、背負わされた理不尽、
命と人間性を奪った者に対するやむにやまれない憤怒。
人が人として生きることを問い質す「聖書」だと思っています。
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