「音の夕映え」の著者池田圭1912年(明治45年)-2001年(平成13年)
「名曲決定盤」の著者あらえびす(野村胡堂)1882年(明治15年)-1963年(昭和38年)
この二人は、僕にとって音楽を聴く上で最も尊敬し親しみを憶えます。
共通しているのは、二人ともレコード音楽のただならぬ愛好者ということです。
二人は音楽を愛するが故に、レコードを集めました。
池田圭はそれ以上に、オーディオの名機器と装置による再生に心血を注ぎました。
それはオーディオ道という道楽を超えた、
愚直に真の音味を発見する求道であったと思います。
街に本物の音楽が身近にあふれる欧米であれば、
砂漠で水を求めるがごとき音楽への渇望はなかったかもしれない。
という趣旨のことを二人とも述べていますが、それはクラシックに限らず、
かって会話禁止のジャズ喫茶でひたすらジャズを聞いていたことからも肯けます。
生魚が手に入らなければ干物や缶詰を利用するように、
生の音楽が聞かれなければレコードで聞くよりありません。
辺境にあって欧米音楽という文化を渇仰した先達は、
レコード音楽を愛し日夜熱心に聞きながら、
世界の新しい精神文化を自らの内面で発見する喜びがあったと思います。
二人の著作からその様子がひしひしと伝わってきました。
蛇足 圭さんの述懐、ふと?行間に漏らした次の一言が思いの外で、
僕の経験とも響き合い深く心に残る言葉でした。
「僕が長い間オーディオ一辺倒であるべく努力した跡は
過去の随筆を読んで戴ければよく判る筈である。けれどもここ数年来、
いい音で音楽を楽しむ重大な要素はそのプログラム・ソースの音楽性の如何であり、
最近はそれを尊しとするようになってきた。名曲の名演奏、そしてその上音を忠実に
伝えようとするレコードに接すると、装置の如何に係らずいい音の聞こえる。
そうであっては成らないと厳然として冷酷な態度で臨もうとしても
そのレコードの良さには参らざるを得ない。そういう心境になってきたことに就いては
自ら深く考えざるを得なくなった。」
「名曲決定盤」の著者あらえびす(野村胡堂)1882年(明治15年)-1963年(昭和38年)
この二人は、僕にとって音楽を聴く上で最も尊敬し親しみを憶えます。
共通しているのは、二人ともレコード音楽のただならぬ愛好者ということです。
二人は音楽を愛するが故に、レコードを集めました。
池田圭はそれ以上に、オーディオの名機器と装置による再生に心血を注ぎました。
それはオーディオ道という道楽を超えた、
愚直に真の音味を発見する求道であったと思います。
街に本物の音楽が身近にあふれる欧米であれば、
砂漠で水を求めるがごとき音楽への渇望はなかったかもしれない。
という趣旨のことを二人とも述べていますが、それはクラシックに限らず、
かって会話禁止のジャズ喫茶でひたすらジャズを聞いていたことからも肯けます。
生魚が手に入らなければ干物や缶詰を利用するように、
生の音楽が聞かれなければレコードで聞くよりありません。
辺境にあって欧米音楽という文化を渇仰した先達は、
レコード音楽を愛し日夜熱心に聞きながら、
世界の新しい精神文化を自らの内面で発見する喜びがあったと思います。
二人の著作からその様子がひしひしと伝わってきました。
蛇足 圭さんの述懐、ふと?行間に漏らした次の一言が思いの外で、
僕の経験とも響き合い深く心に残る言葉でした。
「僕が長い間オーディオ一辺倒であるべく努力した跡は
過去の随筆を読んで戴ければよく判る筈である。けれどもここ数年来、
いい音で音楽を楽しむ重大な要素はそのプログラム・ソースの音楽性の如何であり、
最近はそれを尊しとするようになってきた。名曲の名演奏、そしてその上音を忠実に
伝えようとするレコードに接すると、装置の如何に係らずいい音の聞こえる。
そうであっては成らないと厳然として冷酷な態度で臨もうとしても
そのレコードの良さには参らざるを得ない。そういう心境になってきたことに就いては
自ら深く考えざるを得なくなった。」